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60万人とも70万人とも言われていますが、確実に言えることはフラダンスとともに、年々ウクレレを楽しみ方達が増えていることではないでしょうか!!!

 

 

日本国内でのウクレレの愛好家って、どのぐらいいるの!?


 

100年以上の歴史があるウクレレは、元々は1800年代後半にポルトガルからハワイにやって来た移民労働者達が持ち込んだ、ブラキーニャというギターが起源とされています。

当時の王がこの音色を気に入り、宮廷音楽に取り入れたことからウクレレの歴史がはじまり、時代と共に徐々に姿を変え、今のウクレレになったようですね。

ウクレレとはハワイ語で「飛び跳ねるノミ」という意味でその名前の由来は諸説あるようです。

当時の人気奏者のあだ名から取られたとも、ウクレレが上手なイギリス人奏者の指が目まぐるしく動く様だとか、小さな楽器であるウクレレの上で飛び跳ねるノミのようであったとか、言われているようです。

 

 

そんなウクレレ。愛好家が増えているのは“なぜ”!?


 

基本的には4弦のナイロン弦仕様で、ギターに比べ小ぶりなので抱えやすく、ネックもスリムなのでどなたでも弾きやすい楽器ということ。

その上、コードも簡単に押さえることができ、簡単に演奏を楽しむことができる点が大きいのでは。

近年は、ウクレレ教室も各地で開催されたり、初心者向けの教則本や、ハワイアンだけでなく、ポップス、ロック、ボサノバなど様々なジャンルの楽譜が数多く出版され、ウクレレの楽しみ方がどんどん広がっていることも理由の一つでしょうか。

ところでウクレレの教則本や楽譜を書店に探しに行くと経験するアルアルです。 カテゴリーが「趣味」のコーナーではなくて、「芸術」のコーナーにあることが多々あります。

皆さん、割とご存じだったでしょうか?

 

ウクレレをもっと知ろうとした時期に、本やDVDをむさぼる様にして読んだり見ていたことがありました。

その中の一本、とっても素敵なドキュメンタリーがあって、何度も見ていた作品があります。

世界中のウクレレ・マイスター総出演といえる内容で、ジェイク・シマブクロ、ビル・タピア、ジェームズ・ヒル、タイマネ・ガードナー達が最高にハッピーな演奏をプレイしていました。

作品のタイトルは、『MIGHTY UKE』 その中に、ウクレレの魅力を表した台詞があります。

 

“笑顔になるための楽器、競争する楽器じゃない”

 

きっとウクレレのファンが増えるのは、この台詞が表しているウクレレのその美しくやさしい音色が表す世界にあるのではないでしょうか!?

 

80年代に入って早々の頃だ。
白いウェットスーツの袖を切り落としたノースリーブ。
レングスも切り落として、ちょっとハイレグ。
そして“乱れたタテガミのようなヘアスタイル”で佇む美女が話題となった。

映画のメインシーンを使ったポスターだった。

話題だけなら良かったが、海沿いで遊んでいた女の子達はこぞってこのヘアスタイルを真似したものだ。
もちろん、海の中に入ればせっかくのセットも崩れてしまうが・・・。

この映画のタイトルが“Sunburn”。
ちょっと酷い日焼け、または火傷に近い日焼けというニュアンスだと当時誰かに聞いた。
海で遊んでいると、もしくは海沿いで生活をしていると、この日焼けとは長い付き合いとなっていく。

シーズン初めに軽く日焼けをしておくと、そもそも黒くはなるが赤くはならないなんて迷信があったが、それはプールで遊ぶ時用だ。
潮風にさらされ海からの照り返しを受けると、そんなレベルではとても耐えられない。

迷信かどうかは知らないが、リンゴジュース、オレンジジュースを飲む。なんてのもあったな。実際どうだったんだろうか!?

そんな訳で日焼け止めも、シーズン毎に改良されてきた。
ステッィク状のもので顔にいたずら描きしたり、ウォータープルーフタイプを真っ白になるぐらい顔に塗ったりしたけれど、完璧なガードは難しいね。

海外のブランドが入手できるようになると、割と日焼けには効いたりしたんだけれど、反面では肌が荒れたり赤くなったり、眼に沁みちゃったりが結構あったみたいだ。

肌でコレだと、もっと悲惨なのが頭皮ということになる。
強い紫外線に晒され、塩分の多い海水に浸され続ける・・・。
頭皮にしたらチョットした拷問だろう。

先輩の中には、ロン毛にしていたがために海水の重さに耐えられなかった毛髪が抜けた方もいた・・・。
サーフキャップが発売された時には、デザインはさておき待ってましたと手に取ったものだ。

ライフセーバーの団体が勧めた日焼け止めもあった。
コレは効き目は確かにあったようだけれど、瞬間で売り切れた。
それほど効果があったのだろう。

結局ポイントは、防水効果が高い、UVAとUVBの両方に効果がある、スティックタイプで塗りやすくベタつかない、肌が弱くても使える・・・。
こんなところかな。
探せばありそうなんだけれど。

当時は、保湿なんて考えなかったけれどシーブリーズだけは肌に叩いていた。
これは同級生の野球部に教わったのだったっけ。

そろそろ日差しが強い季節になってきた。
今年こそは、焼かない夏を心がけようか。

地元出身の有名なミュージシャンがいる。
数々のヒットナンバーがあり、そのなかには地元を歌った曲がある。
デビュー曲は特に上手く海沿いの町を言い表している。
曰く「今、何時?」「そうねだいたいね」と言うことだ。

夏になると海岸でそこそこ大きな花火大会がある。
わざわざソレを見るために都会からやってきた友人が言う。

「場所を取りにいかないの?」
一瞬、何を言っているのかが分からなかった。

7時の時報とともに花火が打ち上げられる。
電柱に取り付けられたスピーカーから町会の放送が流れ出す。
「花火大会が始まりました。みなさん海岸へ行きましょう!」
こうしてやっと地元の住民が移動を始める。

都会からやってきた友人は、さっきとは逆の立場になってポカンとしている。

地元にはなかなか美味いハムとソーセージの専門店がある。
高級住宅地のスーパーやら会員制の通信販売をしているらしいが
店頭では普通にキロで売っている。
作って売っているのは、ドイツ人のオッサンだ。
マイスターらしいが、本人も周りもそんなこと気にもしていない。

一回だけ聞いてみた。
「なんでドイツから海沿いのこの町に来たんだい?」
答えは簡単だった。

「ビールのつまみに海風の塩加減がちょうど良い」だと。

一列目の家という言い方があるけれど、その店は二列目の奥まった路地にある。
BeerBarと言うか、とにかく様々なビールが多いことは確かだ。
午後になるとマスターが開店準備で、ポテトの皮を剥く。
フライドポテトが名物なのだ。

ある夏に25mプールがいっぱいになるぐらいのビールを飲んだ。
ビールの二日酔いは殊の外ツライ。
見かねたマスターが作ってくれたのが‘キューバ・リブレ’だった。
ラム&コークとどう違うか尋ねると、コーラの種類が違うとのことだった。

それでもビールが飲みたいと言うと、レッド・アイを作ってくれた。

シンクに水を張りフルーツトマトを浮かべる。
底に沈んだ糖度の高いトマトだけを裏漉しにする。
さらに和手ぬぐいで濾したトマトジュースと生ビールを合わせる。
タバスコのBQQソースを添えて完成だ。

レシピは繊細だが、分量は目検討でいい加減なものだ。

これを見ていたソーセージ屋のオッサンが自分にも出せと言ったが
二日酔い専用だと断られていた。

間口の半分、シャッターが閉まっているラーメン屋がある。
屋号は多分無い。
メニューは醤油ラーメンと味噌ラーメンのみ。
空いている席に順に座る仕組みなので、連れ立って来ても隣り合わせになれない事が多い。
そもそも店内では無駄口が厳禁だ。
皆が黙々と食べている姿は、よくよく見ると異常だ。
特に夏になると異様な熱気の中で、背中を丸めて男も女もラーメンを啜っている。

件のBeerBarにラーメン屋のおやっさんが来ていた。
赤星を一本差し入れる代わりに聞いてみた。
「なんで塩ラーメンは無いんですかね?」
答えは
「塩が一番難しい」だった。

そうねだいたいね気風の町は、概ねこんな奴らばっかりだ。

JRの駅を背にして南へ向かう。
昔からサーファー通りと呼ばれていた道を、海水浴場方面へと向かって進む。
10分もすると、口の内に「しょっぱさ」を感じるようになる。

海水浴場の南の外れに“ママの店”はある。
ママの店がいつからそこにあるのかは知らない。
小僧だった地元の悪ガキが親父になるぐらいの時間は古いらしい。
どうして“ママの店”と呼ばれているのかは誰も知らない。

こんな話がある。
中学で既に一端の波乗りだった先輩が、高校に入ると波から二輪に乗り換えた。
波乗り仲間は先輩と連まなくなった。
それどころか「ポマードが海を汚すから近づくな」と。

それから四半世紀が過ぎた頃、海岸の隅でパドリングからテイクオフの練習をしている父娘がいた。
先輩とその娘だった。
あの頃、先輩の仲間だった人達はその練習を黙って見ていた。

練習に一区切りがつくと父娘は“ママの店”にやって来た。
「ママ久しぶり」先輩が言う。
「そうでもないさ」ママが応える。
視線で娘を指して聞く。「あんたの娘かい?」
先輩の答えを待たずにママが言う。
「あんたのパパは昔はカッコ良かったんだよ。今は立派なオッサンだけどね」
「あたしのことは“ママ”と呼びな。誰かに海岸で何かを言われたら“ママの店”の客だと言えばいいさ」

娘は今では一丁前にカットバックを決めて、“ママの店”でホットドックをパクついている。

あまり知られていないけれど“ママの店”には裏メニューが二つある。
一つ目は、チリドックだ。
その夏一番の暑い日だけ限定でメニューになる。
なんでママがその夏一番の暑さになるかを知っているかなんて分からない。
でもとにかくその夏一番を教えてくれる風物詩だ。

そんなチリドックが一度だけ真冬にメニューになったことがある。
海岸通りの七不思議なんて言われている。

裏メニューその二は、たこ焼きだ。
ママには一人娘がいる。
高校を自主的に卒業すると、いきなり皆の前から消えた。
ママに行方を聞いても「知らないねぇ」とはぐらかす。
そんな娘が海岸通りに帰ってきたのは季節が一巡した秋だった。
娘はホットドックスタンドのカウンターの隅で、たこ焼きを焼きだした。
聞けば大阪に単身で修行に行っていたらしい。
周りはカリ中はトロリとした「たこ焼き」はヒットした。

客のいない昼下がりに、娘が「食べてみて」と‘たこ焼きチリソース掛け’を出してきたことがあった。
かつてママが真冬なのにチリドックを作ったのは、自主卒業をしてこの町を離れる娘のためだったそうだ。
チリドックは娘の大好物。
そしてチリソースは彼女のパパ秘伝の味だった。
たこ焼きを小ぶりにした‘たこ焼きチリソース掛け’は定番メニューとなった。
代わりにスタンダードなたこ焼きが裏メニューとなってしまった。

今日もママの店で
「ケチャップを掛けすぎだ」と叱られながら、ホットドックを食べている。

砂浜を裸足で歩くとアツイなぁと感じたら夏の始まりだ。

サリンジャーが「ライ麦畑でつかまえて」で上手い事を書いていた。

カリフォルニアの少年は不幸だ。雪の染み込んだ革靴からテニスシューズに履き替える季節の変化を楽しめないなんて・・・こんな感じだったかな。

さしずめ海沿いでビーチサンダルのオンシーズンを知っているということは、大変に幸福なのだろう。

海沿いの生活では、間違いなく生まれた時から身近にビーチサンダルがある。
おかげで今までにいったい何足のビーチサンダルを履き潰したことか!?

気が付けば一年中、使っているマストアイテムとなっている。
冬でも着替えの時やシャワーの時と欠かせないし、室内履きとして使っている家庭も割と多い。

この辺りならではと誰かに聞いたけれど、小中学校の父兄参観にビーチサンダルでやってくる両親も多いらしい。ヤレヤレ・・・。

とは言えシーズンの始まりにビーチサンダルを履くと、ビニールの鼻緒(前坪の部分)で指の股が靴擦れ状態になったり、鼻緒やストラップの跡に日焼けしたりする。

70年代にマリブのボードが全盛期ぐらいの頃。

だいたい皆がカラフルなビーチサンダルを履いていた。鼻緒とゴム底が色違いが基本で、たまにサイケな花柄なんてのもあった。
このタイプは鼻緒が草履から抜けると、もはや元には戻らなかった。男と女の関係に似ている・・・かもしれない。

そのすぐ後にビーチサンダルは様々に進化していく。

一番気に入っていたのは、鼻緒(トング)からストラップにかけてがキャンバス生地でできていたビーチサンダルだ。履き心地がとにかく良かった。
ただしアスファルトでソールが簡単に削られて、寿命が短かったことが難点だったが。

ちょいと前からはクロックス風な先の丸いサンダルを結構で見かけることが多い。
浜辺に置いといたら風で飛ばされるのじゃないかとか、ちょっと海に入ったら水抜けが悪そうだとか、そんな目で見てしまう。

ちょっと値段はハルけれどREEFのサンダルはカッコいい。これなら一年中でも履いていられるポテンシャルだよなぁと思っていたら、ギョサンが人気だという。

90年代の初頭には確かもうあったはずだ。
鼻緒とソールが一体化している構造のため大変頑丈で、かつまたソールの地面との設置部分が滑らないような加工で大変便利だ。

当時は釣り道具屋がメインの取り扱いじゃなかったかな。

2000年代に入ってから、人気タレントがTVで愛用していると発言してからヒットしたみたいだ。

先週末に通りかかったら、クリスタルやラメ入りのギョサンが店頭を賑わしていた。

長々と語ってしまったけれど、皆はビーチサンダルが日本発祥だって知ってたかい?

深夜を数時間過ぎた早朝前の時間に、友人が迎えに来た。
「よぉ」。素っ気無くてすまないとは思いつつも、挨拶はそれだけだった。
そそくさと友人の車に乗り込んだ。

どうにもプライベートとオフィシャルのバランスが悪かった。個人の生活を犠牲にして成り立つ仕事・・・。そんな悪循環で若干擦り減っていた。
そんな時に、友人の細君であり私にとっても古い友人の彼女が、実家近くの漁港を紹介してくれた。「美味しいモノを食べれば元気が出るわよ」と。

誘いに乗ったのは「美味しいモノを食べれば」という一言。
心が疲れていると食欲も落ちるらしい。漁港から船を出して釣り竿を垂らせば、気分も変わり食欲も出るかもしれない。

まだ暗い半島沿いに、波の音を聞きながら友人の運転で進んでいると陽が昇って来た
そして半島の崖を下るようにして下ると、いきなり開けた場所に出た。
目当ての漁港だった。
そこそこ早い時間のはずなのに、漁船はほぼ出払っている。

紹介された船宿に着くと、本気の船「宿」だった。宿泊もできる民宿形式らしいた。友人は顔馴染みらしく挨拶をしている。
釣り客は我々だけ。
船長のオヤッサンに引き連れられ船へと向かう。
太公望の友人は嬉々としている。

約30分の航海でポイントにつく。友人は早々に竿を2本出して集中しだした。

私は餌のゴカイをのんびりと付け竿を垂らす。
数分後、見事に餌だけを食べられた。
以降は餌を付けずに竿を垂らすのみにした。

水平線を見ていると少しだけ‘何か’を忘れられた。

船長が笑いながら私に言う。
「あんましヤル気が無いね。こりゃあポイントを回らなくて楽だわ」

太陽が少しだけ傾くと帰港の時間となる。
釣果は潮風に吹かれ気分転換できたことだった。

船長が波に負けじと大声で言う。
「さて帰ってメシにすべ」
「街じゃタコライスが流行っているんだろ!?本場のタコライスでも食べてけや」

何故に海沿いの漁師町でそんなジャパニーズメキシカンを!?

そんな疑問も束の間。
波を切って飛ぶように戻る船は、船室の壁に背をもたせ反対の壁に足を踏ん張らないと振り落とされるかと思うほどヤバかった。
おかげで、港に着くと月の上でも歩いているような心もとない足運びとなった。

船宿に着くと女将さんすぐに冷たいビールを出してくれる。
友人と喉を鳴らして飲む。何も言葉が出てこない。

箸休めと言って漬物が出てくる。
ぬか漬けが絶品だった。
特に玉ねぎが甘い。
女将さんに聞くと、糠床に何の野菜を漬け込むかで種類を決めると言う。
水気が無いモノと水気のあるモノ、そうして糠床が育つのだと。

羽釜で炊いていたご飯が出来上がる。
丼ぶりに盛りつけられて出てきたソレは「蛸飯」だった。
ほんのりと赤みを。そしてそこに散らされた木の芽の緑が鮮やかだ。

やられたと思ったが冗談ではなくて、昔から「蛸飯」のことをタコライスと言うらしい。

地のものらしい岩海苔の味噌汁が出てきた。
風味が素晴らしい。香りと歯ごたえが潮に吹かれた身体に染み込んでくる。
テトラポットに張り付く海苔は収穫量が少なく出荷するほどでは無い。
そのために地元でしか口にすることができないらしい。

漬物と味噌汁で蛸飯の丼ぶりを平らげると「もうちょっと食べられるか?」と船長が聞いてきた。

とろろ薯のような白くトロリとしたソース状の食べ物が出てきた。
「ライスの上にかけて食べなよ」。
言われたとおりにすると、そこには別次元の味が待っていた。

さらに山葵を溶いた醤油を気持ちかけ、小口に切った葱と鰹節を振りかける。
腹は満たされてしまっているのに、もっと食べたくなる不思議に素晴らしい味だ。

問いかけるような視線だったのだろう。女将さんが教えてくれた。
「お豆腐を水切ってからミキサーによーくかけるのよ、それだけ」
ただし書きがついていた。
豆腐は、大豆と水と「にがり」だけで作った物に限るそうだ。
「にがり」だけ・・・。さすが漁港と言うべきか。

友人と視線が合った。
船長で宿のオヤッサンに聞いていた。
「今夜は部屋は空いてますか?」

浜辺から水平線を観れば、ブルーグレーに滲んでいる。
今日の夕方か夜には雨になるだろう。
雨ならば良いけれど、すでに吹き付けている生暖かい風からすると暴れん坊の風がやってくるかもしれない。

案の定、夕方から深夜にかけてはなかなかの暴風に乗って、普段より多くの海風が吹きつけてきた。

翌日は、そんなことを忘れたかのような晴天が駆け足でやって来る。

 

そして、海沿いのこの町では家洗いが一斉に始まる。

 

街に住んでいる人達には想像もつかないだろうが、海沿いの町では暴風雨はその最中から翌日までが勝負だ。

オーシャンヴューなどと言って海に向かって大きめの開口部を作ると、もれなく恐怖がやって来る。生活の知恵で原住民は雨戸やシャッターがデフォルトとなっている。
暴風ではなくても、風の強い日の後は海風に乗って塩が飛んで来て窓ガラスを白くする。その様は、まるで曇りガラスのようなホワイトグレーとになる。

開口部に限らず、エアコンの室外機や給湯器など屋外にある設備は内部にまで塩が入り込み劣化は早く故障が多い。

 

早朝から、それぞれの家で塩が乾く前に、たっぷりの水で洗い流しが始まる。
庭にある植物も影響を受けて枯れてしまうので、植物にも水をたっぷりと。

 

こうして暴風雨の翌日にこの町では、高圧洗浄のホースから撒かれる水で幾筋もの虹が架かることとなる。これも海辺の町の楽しみのひとつかもしれない。

ちょっと風邪気味なので仕事を休むことにした。
幸い抱えていたプロジェクトが終わったばかりだった。

それほどの熱でもなかったが自宅で過ごすことにした。
する事が何もなかった。
いたしかたなく古い映画を観ようとしてタイトルを見ていて、ふと思った。

西海岸を舞台とする物語は、圧倒的に主人公が東海岸からやって来ることが多い・・・と。

カリフォルニア・ドリーミング(1978)では、シカゴからバスに揺られて主人公がカリフォルニアへやって来るシーンから始まる。

ハートブルー(1991)は、エリートFBI捜査官が潜入捜査で未経験のサーフィンを始めるにつれ、知的だった彼が段々とデニムのジャケットが似合うようになっていく。

グレイスランド(2013)は、ワシントンDC勤務を希望していたFBIアカデミーを首席で卒業した新人捜査官が、希望とは裏腹に西海岸のビーチへと赴任。

西海岸ではないけれど、ハワイ5-0(=HAWAII FIVE-0)では、ダニー・ウィリアムズがニュージャージからやって来た刑事でネクタイをしていることを揶揄われる。

アメリカ人は、19世紀から変わらずに西部に向かうことが好きなのだろうか。
こんな事を考えているということは、やはり微熱があるらしいな。

その食堂は岬の入り口近くにあった。

町へと戻るバスには一時間近くあり、バス停は簡易な作りだった。
バス停から100m程度先に、白い壁と赤い屋根が目を引く建物があった。
何の建物かは分からなかったけれど、どうせ一時間待つだけならばと歩いて行った。

控えめな看板が入り口近くにあった。
店の名は“岬食堂”。
ロケーションそのままの店名と手入れの行き届いた外壁が、心をくすぐった。
コーヒーだけでも飲めればとドアを押し開けると、涼しげなベルが鳴る。
「いらっしゃいませ」。
女性二人のハーモニーで迎えられた。

よく磨きこまれた床は顔が映りそうなほど。
清潔感のある白と赤のタータンがテーブルクロス。
大きめの10ozタンブラーで冷水が供された。

年配の女性が持ってきてくれたメニューは、ランチが魅力的だった。
若干早かったけれど、心惹かれて頼んでしまった。
「オムライスをお願いできますか」。

のんびりとした口調で彼女が言う。
「ケチャップはもちろんですが、本日はデミグラソースかカレーソースもありますよ。そうそう特製ソースもありました」。
2秒考えて、オリジナルソースをお願いした。

窓の外には、岬の突端を風が撫でていた。

運ばれてきたオムライスは、チキンライスの上に見事なオムレツが鎮座している。
そのオムレツにナイフを滑らすと、マジックみたいに卵が溢れる様に現れた。
グレイビーボートに別盛りにされていたオリジナルソースを、スプーン一杯分だけかけてみる。
酸味と甘味のバランスが絶品だ。

ガツガツしないように気をつけながら平らげた。
バスの時間まではまだ余裕がある。
さて、もう一品オーダーすべきだろうか・・・。

あまり知られていないことだけれど、江の島には人が住んでいる。
そしてその中には、小学生から高校生までの通学をしている学生が少なからずいる。

同級生の友人はその中の一人だった。

今は知らないが、当時は江ノ島大橋を渡って島まで来るバスが朝と夕方にはあったらしい。
友人の家は割と山の上だったらしく、毎朝駆け込みでバスに乗っていたと言う。
ある時、台風が接近した。
てっきりバスは来ないと思っていると、打ち寄せる波の中をいつもの時間にやってきたそうだ。

高校生の頃、週末に実家の店を手伝っている友人を訪ねた。
友人を待っている間に親父さんから供された江ノ島丼は、絶品だった。
驚いた顔をしていたのであろう。親父さんがポツリと言った。
「本物のサザエだから」。

海の幸に恵まれた島だからなのか、多くの猫が住み着くようになったことがあった。
島全体が聖域の島内では、地域猫として見守り続けていた。
猫の島として有名になってしまったけれど、何も変わらずに猫たちと付き合い、猫たちも人懐こかった。
ただ一つの願いは、お気に入りの猫ができても居場所をネットで共有しないでほしいということだと友人は言う。

二十歳をいくつか過ぎた頃、友人と初日の出を見るために島の南側に行った。
人工的な明かりが全くない南の岩礁は、漆黒の闇とはこういうことかと思う深い闇だった。
日が差してくるまでは、警備によって磯場へは降りることが出来ない。
江島神社奥津宮の前あたりで陣取り、警備の解除と共に磯場へと降りていく。
おっかなびっくり進む私を後目に、ヒョイヒョイと進んでいく友人。
まるで島の猫のようだった。
追いつこうと一歩踏み出した途端に、磯だまりに嵌まった。
元日から潮の香りを漂わすこととなったこの年は、すこぶるくじ運が良かったことを覚えている。

空気がピンと張っているような、明け方というには遅く、早朝というには早い、そんな時間帯に海岸へと出てみるといい。
特に大きなうねりが来ていた後がおすすめだ。
早起きのご褒美に、浜には“桜貝”があるかもしれない。

とても薄くて繊細で、優しく扱わないと割れてしまう桜貝。
貝の種類ではなくてピンク色の小さな花びらのような貝の総称なのに、なぜか等しく儚げに見えるのは気のせいだろうか・・・。

古くから住んでいる方達に聞くと、かつては浜一面がピンクになるほど打ち上げられたという。
それが今や稀な存在となり、拾うと幸福になるなんて言われてしまっている。

確かに、朝一番のまだ人が歩く前でないと踏まれて割れてしまうし、そもそもが波に運ばれているにも係わらず割れていないということが、奇跡なのかもしれない。

桜貝は俳句の季語にもなっているそうなので、見つかる季節は隠すまでもないけれど、見つけることのできる海岸は秘密にしておきたいな。

80年代後半ぐらいのトライフィンが話題になり始めた頃、自転車にキャリア(サーフボードラックと後年呼ばれるようになった)を付けてボードを運ぶことが湘南辺りで始まったと思う。 

それ以前であれば、リヤカーもどきにボードを積んで自転車かカブで移動していたように記憶している。
また湘南辺りというのは、千葉や伊豆、八丈島、種子島、茨城では見かけたことが無かったからだ。

都市伝説なのか、キャリー(サーフボードラック)については特許を取得した商品で、その取得した人は億万長者となったなどと実しやかに囁かれたりしていた。

アパートやマンションの屋外施設としてシャワーが付帯することと同じく、このキャリー(サーフボードラック)付き自転車が町の風景としていつのまにか馴染んでいた。

このキャリー(サーフボードラック)はローカルではすごく便利だと思うのだけれど、当初は使い方に疑問があった。
ボードのフィンを外側に向けて積む輩が多々いたのだ。
言うまでもないけれど、壁や自動車ましてや誰かを擦ったら危険なのだ。
とは言え、しばらくすればローカルの暗黙の了解が良い方に働き、そんな積み方も見なくはなったが。

ワタクシはどうかって!?
湘南生まれで湘南育ちだが、マリンスポーツには全く縁がない人生を送っている次第だ。

女友達が都心から鎌倉の実家へと転居した。
柔肌をスーツで武装して仕事をこなしている彼女は、順調にステップアップをしていた。
そんな仕事の状況を考えれば、whyの付く引っ越しだった。

興味本位で理由を聞いてみた。
答えはシンプルだった。

曰く「鎌倉野菜が恋しくなったから」。

ある週末に、その鎌倉野菜をタップリと使った元祖“けんちん汁”をいただきに、引っ越し祝いを持って鎌倉を訪ねた。

駅で待ち合わせていると彼女が自転車でやって来た。
よほど驚いた顔をしていたのだろう。
「なによ!」と照れていた。
背中まであった髪が無くなっていた。
“ベリー”という形容詞がつくほどのショートカットになっていたのだ。

これもまた興味本位で聞いてしまった。
今度の答えは少し長かった。
鎌倉は地面を掘り起こすと何かが出てしまうことが多々ある(さすが古都!!!)ので、都市ガスとプロパンガスが半々ぐらいの普及だということ。
彼女が高校生の頃、お風呂に入っていたらプロパンガスが切れてしまった。
不幸だったのはその日、自宅には彼女しかいなかったことだ。
そして長い黒髪が自慢だった少女は、真冬にバスタオルを巻いてプロパンガスの交換をしたそうだ。
その後、全く温まらずに酷い風邪となってしまった。
そのトラウマから引っ越しを契機に髪を切ったと笑った。

しばらくして土産の白ワインを飲んでいるとポツリと彼女が呟くように言った。
「古い家、古い仕来り、古い町並み、古くからの近所付き合い。全部嫌になって引っ越したのに戻ってしまったわけね」。

横顔を見ると楽しそうな笑みが浮かんでいた。

この町では晴れた週末に海岸沿いの国道を走れば、確実にフリーマーケットに出くわす。
土地柄のせいか、置いてある商品はどことなく海を感じるモノばかりだ。
フリーマーケットの語源に拠るせいでもないだろうが、古着も多い。

一度、どこかの高校のチームユニフォームらしきTシャツを買った。
袖をカットしたコーラル・ブルーのTシャツは、まだまだ現役で使える代物でジョギングの時に着用していた。
ある時に海岸線を走っていると、その高校のOBかと尋ねられた。
買ったとも答えにくく口ごもっていると、そのチーム昔は強かったのだよと教えられた。
以来、そのTシャツは部屋着へと華麗なるキャリアチェンジを果たした。

ダイニングで使っていた椅子が壊れたので、フリーマーケットをいくつか回ってアジアンテイストな椅子を購入したこともある。
3脚セットで購入したけれど、そのうちの1脚は背もたれに寄り掛かると見事に折れた・・・。
残り2脚は無事に今でも我が家で現役として活躍中だ。

特に必要とはしていなかったのだけれど、皮の編み込み加工を施されたシステム手帳を衝動買いしたことがあった。
それなりの経年劣化はあったけれど、加工の見事さに心惹かれた。
自宅でリフィルを入れようとすると、表紙の後ろ側に一枚の写真が挟んであった。
少しだけセピア色を纏っていたその写真には、父と母そして姉妹らしき少女が二人映っていた。
数日考えて手帳を購入した“店”を週末に探したが、あれ以来この店を見かけることは無かった。

いつかこの写真を持ち主に返せるだろうか。
週末に渋滞で混んでいる海岸沿いの国道を走ると、そんな事を考える。

ハワイ・コナという珈琲豆がある。
忘れられた品種だったけれど、世界的な珈琲豆の不作の時期に脚光を浴びたらしい。
焙煎をして得られる柔らかな酸味は、朝に昼にと時間を選ばずに飲めるテイストだ。

 

秋が駆け足で次のドアに手を掛ける頃が、僕の誕生日だ。
母に聞いたところ、生まれた日はその年の最後の雪の降った日だったらしい。

二十歳の誕生日に、夜明け前から海岸に座っていた。
生まれた時から聞いていた波音は何も変わらず、潮風は相変わらず無愛想だった。
ステンレスのボトルには濃い目に落としたハワイ・コナ。
コートのポケットには、国産ウィスキーのポケットボトル。

水平線をジッと見ていた。
早起きのサーファー達もまだいない。
時たま珈琲をカップに注いで飲んでいた。

朝日がヤレヤレと顔出したころ、カップにウィスキーを注いで足した。
胸の奥で乾杯をした。
明日はどうなるか分からないけれど、何とかなるという予感だけがあった。

コナ・スノー。
この豆が花を咲かせると、まるで雪が降り積もったようになるそうだ。

あれから随分と年月は過ぎたけれど、僕の花はまだ咲いてはいないようだ。
そして今日も、カップ一杯のハワイ・コナを飲んでいる。

海沿いのこの町に引っ越してきたのは、偶然だった。

中古の軽に積み込んだ荷物はトランク一つ。相棒は人間に換算にすれば中年の域に達した老犬だけだった。
出会った頃は子犬と呼ぶにふさわしかったけれど、今は自分より年上となってしまっていた。

散歩が朝と夕に日課だったが、前の住居近くでは歩くことが辛そうに見えることもあった。
海沿いの町に引っ越して良かったのは、この散歩だった。
海岸線をこちらよりも早く歩きたがる。
こんなことって何年振りだっただろう。

早朝の海岸では友達もできた。お互いにそこそこの年齢のはずが、子犬の時のようにじゃれ合い走り回っている。
潮風は心地良くもあり、迷惑な時もあるけれど、総じてこの海沿いの暮らしは私にもパートナーにも快適なようだ。

ちょっとだけ時計の針がゆっくりと進むこのペースに慣れたころ、パートナーが体調を崩してしまったことがある。

夜の散歩から帰った途端に苦しみだしてしまったのだ。
海岸で友達となった縁を頼って電話をした。
「この町には24時間で往診もしてくれる獣医さんがいるよ」と心強いアドバイス。
胸の中にいつの間にかできていた冷たく硬い塊が氷解していくようだった。

「お年の割には元気ですね」
若い獣医さんは微笑みながらそう言った。

あれから数年。私は未だに独身だが、パートナーは元気に海岸を走っている。

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